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神明市の歴史

 このページで紹介する神明市については、昭和44年1月28日、「三原神明祭について」 郷土史研究家 白松克太先生が講演され、東町四丁目町内会会長 定森三郎氏(当時)が記し残したものを、三原神明市協賛会の方が今なお保存されているものです。
 神明市の歴史は古く、不明なところも多くあるそうですが、ここで紹介させていただきます。

伊勢皇大神宮の分身である

 神明祭というのは神明という言葉からわかる様に、元は伊勢の皇大神宮を中心としたお祭りである伊勢神宮は、皇室の氏神と言われている天照大神戸豊受大神を祀ってあるが、実を言えば神明信仰、伊勢信仰というのはもっと庶民の本当に泥くさいような信仰そのものであった。元を歪められて今日に至ったと私は言いたいのである。何故かといえば初は皇室の氏神であるから皇室だけが守る参拝する、一般の人が弊餅を捧げることはできなかったが、平安朝の末期頃になってだんだん貴族とか領主たちが参拝した。
 殊に蒙古来襲の時には、神風がおこったということで一躍有名になり日本鎮護の神様だと言う事になって一般庶民の伊勢参拝が盛んになった。
 一番偉い神さん、一番くらいの高い神さんだと、なり、それからは吾々が御願いしたらたちまち願事はかなえてくださるということから庶民的な庶民の神様だと云うことになって一生に一度はお伊勢さんに参拝しなければいけないという所までになった。だからどこまでも庶民の信仰の上にたって発展した信仰であると言える。
 ところがこの信仰を全国に広めたのは大衆の信仰に働きかけた人がいたのである。それは伊勢の御師と云うもので云わば神主さん、この下級の神主さんが諸々方々に散らばってこの信仰を広めたわけである。明治維新の際の調査によると、外宮から約500人、内宮から約400人合計900人と云う下級の神主が全国に散らばって夫々の縄張りを受け持って信仰を広めたのである。

小早川隆景公と神明祭

 三原では小早川氏が本郷に城を構えておったとき御師として下って来たのは外宮の御師武恒という人である。
 三原へ直接来たのは内宮の御師白米彦介大夫である。三原の神明祭はこの白米彦介大夫が大きな役割をしている。
 御師としての任務は先ず伊勢のお礼を配布することである。このお札には家内安全五穀豊穣と云うことが主体であって此れを各戸に配って歩いた。この伊勢のお札だけは仏教の宗派を超越して日本で第一の神様だということから非常に宣伝が好く聞いて殆どの家でお札をうけたのである。

徳川時代の神明祭

 その次には伊勢講が始まった。頼母子で会員からお金をつなぎ毎年代表者を選んで、伊勢に参拝させると云う仕組みが出来上がった。これが戦国時代非常に盛んであった。江戸時代になっては交通も安全になったので益々伊勢参りが盛んになった。本拠宣長の本にも伊勢参りは年間350万に達したと記されている。とにかく素晴らしいお参りと云うものが出来上がった。
  その次にそれだけ発展すると自然に神明所、又は伊勢宮と云うものがその土地に造られるという段階になる之は御師の仕事である。元来御師は伊勢に本拠がある訳で各地区の代表が伊勢参拝するときは御師の家へ落着く訳である。そのような形で発展して今度はその土地に神明社をかくことになる。

「おやま」(御山)のいわれ

御山の図 三原に於ては東町5丁目(新町)に御伊勢さんが祀られてあるが之は元その少し南側に広場があって此処に伊勢屋と云う一つの大きな旅館があった。その旅館に伊勢神宮が祀ってあったので、その名残が現地の本殿である。
 伊勢屋は安政元年から白米と名のり現在に至っている。
 神明祭りでは毎年「おやま」が造られる現在新町・駅前・日赤前などに飾られて誰が見ても神明のシンボルということになっている。之はまさしく「とんど」である。
  「どんど」なら全国に至るところにある。「とんど」又は「佐儀長(さぎちょう)」と云われるが三原から瀬戸内の島々の神明区域では「おやま」であり然もこの「おやま」が神明の御神体である。
 三原の神明にはお宮がない。実はお宮がないのが本当でお宮が出来たのはずっと後の事である。

1970年代頃の神明祭のとんど 三原は古くから港町であって尾道ほどではないが戦国の終わり頃になると今から約500年前に三原の塩が兵庫に送られている。(文安2年)1456年には三原城主杉原四代松丸というのが朝鮮貿易もしている。三原は港町として発展していた訳で小早川が築城する以前からこの神明祭は行われていたのである。
 島々や山間部の方々から多くの人が集まり非常に賑やかな祭りであった。初市には氏神様を祀りその氏神様に天照大神をもって来たところに意味があると思う。

(1970年代頃の神明祭のとんど)

神明祭と神明市

 面白いことに毎年参拝者には、その年の米の値段はいくらになるか予想相場をたててそれを書き出して置きそれを持ち帰って相場を決めるのである。安芸の厳島では宮島相場というのが極く最近まで続いていた。それと同じようにこの三原付近の相場は神明さんで決めていたのである。
 又幕末になると富籤まで発行している。しかもご丁寧に殿様がこの富籤場をわざわざ見に来たというのだから大したものである。
 殿様がお祭りになるときは大橋の所に本陣をおき、先ず昼食をされて参拝の順序に従って神明に参拝される。
 だから商売繁盛を願って各町は競っていろいろな型の人形、時の流れにあった人形を飾ったものである。

昔の神明市の写真(三原市教育委員会のHP)

神明市とだるま

 戦前までは素朴なだるまで大きさは高さ8センチぐらいであった。毎年神明さんにお参りして1個ずつ買って神さん棚へお供えしたものだった。家族の一人ずつが皆元気で年を越す事を感謝して、家族の数だけ買って古くなったものは新しく買い換えた。

 以上のように古くから町を挙げて盛り上げて来た神明祭の行事の精神を尊重してことからも育てて行って欲しいと念願するものである。  

神明大ダルマ

 神明市のシンボルになっている大ダルマ。
 もともとは、東町四丁目町内会が、「だるまくじ」を販売する目印に、昭和25年頃から設置したのがはじまりといわれています。
 神明大ダルマの変遷をご紹介します。
 なお、年については不明な部分もありますので、ご了承ください。

 ※神明大ダルマの写真は三原市歴史民俗資料館所蔵のものです。(無断転載禁止)

大ダルマ 初代 昭和25年頃〜平成27年 (写真は、S27年撮影)


大ダルマ 二代目 昭和28年〜昭和30年 (写真は、S28年撮影)

大ダルマ 三代目 昭和31年〜平成7年 (写真は、S35年撮影)

 

大ダルマ 三代目(改修後) 平成8年〜平成24年 (写真は、H24年撮影)

東町について

東町の区分 東町の形成-米田山西麓の和久原川(湧原川)の三角州上に天正10年〜11年(1583〜84)小早川隆景によって開かれた城下町である。
 南に元禄13年(1700)に築城された塩浜がある。
 米田山麓の旧道沿いにあった町は、城下町の建設に西向きになったので、これを横と考え、竪を(縦)町に改称した。
 市場町・中町・浜町を新街道筋とし、本町と称す。
 その後にできた町を新町とした。又東野村(糸崎・寿町)に至る旭町(米田町とも云う)を形成した。
 正徳の頃(1711)の記録に本町168軒・竪町65軒・新町87軒・築出33軒とある。

東町の町割り

東町の町割り★短冊状にきちんとしている→市場町・中町=古い
★短冊状が少し乱れている→浜町・新町=遅れてできる
★塩浜が出来るまでは、海を控えて、荷揚場や倉庫があった。

神明市の成立過程

神明市の成立過程